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ダストボウル

ダストボウルとは?

ダストボウルは、1931年から1939年にかけてグレートプレーンズ広域で断続的に発生した砂嵐である。天災というよりは人災に近く、何十年にもわたる不適当な農業技術が原因となった。過剰なスキ込みによって草が除去され、グレートプレーンズの肥沃土は曝された。日照りが続くと土は乾燥して土埃になり、それが東方へと吹き飛ばされ、ほとんどは巨大な黒雲となった。雲ははるばるシカゴの空まで黒くし、土の大部分は完全に大西洋へと失われた。

ダストボウルの背景

原因のひとつとして、1930年代の不安定な農業経済がある。第一次世界大戦の後に続く生産過剰のせいで、農家は利益を得るために農業の開拓を自然の限界まで引き上げざるを得なくなった。今となっては耕作には甚だ不適当と思われる農地がますます増える一方で、農業を諦める世帯も増えた。彼らのやせ地と家は支払えない借金で抵当流れ処分になり、多くの農家は土地を捨てるしかなかった。

ダストボウルの経過

1933年11月11日、強大なダストストームが乾燥したサウスダコタ州の農地から表土を剥がし、同年で最悪のダストストームとなった。1934年5月11日、ダストボウルの嵐の中でも最悪の二日に渡る強大なダストストームがグレートプレーンズから大量の表土を取り除いた。土埃でできた雲によって遥か遠くのシカゴでは土のゴミが雪のように降り、一人あたり4ポンドもの埃が空から落ちてきた。数日後、同じ嵐はさらに東のバッファロー、ボストン、ニューヨークシティ、ワシントンD.C.に到達し、その年の冬にはニューイングランドで赤い雪が降ったという。

1935年4月14日は"黒い日曜日"とも呼ばれ、ダストボウルの期間を通じて最悪の "黒い吹雪" が20回も発生して広い範囲に災害をもたらし、昼を夜のようにした。目撃者によれば、5フィート前が真っ暗で見えなかったという。

フランクリン・ルーズベルト大統領が就任して最初の100日間で、自然環境のバランスを修復する政府のプログラムが実施された。アメリカ合衆国政府は、土壌保護局と自然資源保護局を設立した。

ダストボウルの影響

移民

この災害により、テキサス州、アーカンソー州、オクラホマ州などグレートプレーンズでは多くの土地で農業が崩壊し、農家は離農を余儀なくされた。350万人が移住し、多くは職を探しにカリフォルニア州などの西部へ移住した。移住は非常に大規模であった。オクラホマ州では15%の人口がカリフォルニア州だけではなく、テキサス州、カンザス州、ニューメキシコ州へ移住した。オクラホマ州からの移住者である彼らは、少なくとも30万から40万人と見積もられる。彼らは「オーキーズ(Okies)」と呼ばれ、この呼称は現在でもまだ軽蔑的なニュアンスで使用される。

芸術

人災は、現代の写真家、ミュージシャン、および作家によって記録された。写真家のドロシア・ラングはFSAプロジェクトの写真家として働いている間、フィルムに砂嵐の影響を収めて有名になった。フォークシンガーのウディ・ガスリーと小説家のジョン・スタインベックのような独立した芸術家は、ともに彼らのダストボウルの間の生活の描写で有名になった。

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